大統領閣下から江原道・百潭寺(ペクタンサ)幽閉、収監生活を経て罪人として転落した。
同世代はもちろん後輩達にも彼は大統領・全斗煥ではなく、政治軍人・全斗煥として烙印された。
1931年慶尚南道陜川(ハプチョン)郡で生まれた全斗煥氏は大邸工業高校を卒業後1951年陸軍士官学校に入学し武人の道を歩くことになります。
以後、中央情報部人事課長、第1空輸特戦団など出世街道を走った。
軍部の私的組織である「ハナ会」創設メンバーとして朴正煕政権で軍部エリートを遂行した。
1976年、大統領警室次長補として朴正煕大統領を補佐して政治軍人の生き方を始めたが、これは、すぐ始まる政権簒奪の野望の出発点になった。
朴正煕弑逆事件当時合同捜査本部長として12.12軍事反乱を画策して朴正煕大統領と同じように軍事クーデターで実権を掌握した。
以後、非常戒厳令全国拡大と国家保衛非常対策委員会発足、国会解散を経て政権を掌握し「新軍部時代」が幕を上げた。
11代、12代大統領を経た彼は、就任第一声で、「不正・腐敗・政争」の一掃を叫んだが、現実は強固な不正独裁政権として評価された。
実際、1988年退任1ヶ月あまりで弟・全敬煥(チョン・ギョンファン)氏が不正嫌疑として拘束された以後、ずっと下り坂を歩くことになった。
「友達」である盧泰愚氏に大統領の座を譲り与えて上皇になり院政を始めようとしていた彼は結局、同じ年11月、友達である盧泰愚によって江原道雪岳山百潭寺(ペクタンサ)に事実上幽閉された。
以後、国会で光州聴聞委員会、第5共和国聴聞会に相次いで証言台に立たなければならなかった。
百潭寺(ペクタンサ)下山後も権力掌握過程の不法性と日海(イルヘ)財団など在任中に行った不正の追求に苦杯をなめることになる。
1995年、反乱の首謀などの嫌疑で刑務所に収監される前、検察の出頭命令に反発して行った「路地声明」は大きな叱咤を浴びた。
「検察の召喚要求及びその他のいかなる処置にも協力しない」(全斗煥1995年12月)。
2年後、金泳三大統領の国民大和合を名分として赦免され刑務所生活を抜け出したが、罪は生涯、彼の手足を縛り、老体を引っ張って法の審判台に立たなければならなくなった。
もちろん大統領在任時、好績が全くなかったとはいえない。
物価を一桁以内に保ち、88ソウルオリンピックを誘致して韓国の国際的ステータスを高めるきっかけを構築したことは事実である。
しかし27年間政治軍人と大統領として声を張り上げていた彼が30年残した時間は世の批判と断罪を受けるのに送った事実が最終評価として残った。
~連合ニュース~